女王家の華燭《かしょく》

著/葵木 あんね

「――無礼者っ!」
 パシンと乾いた音が響いた。宝蘭(ほうらん)は肩で息をしながら傲然と顎を持ちあげる。
「妾はいずれ女王となる身ぞ。他国の公子であろうとも軽々しく触れることはまかりならぬ!」
 図らずも少女の平手をまともに受け取った若者は唖然として目を見開いた。
 時刻は夜更け。帳のおろされた牀榻には金色の灯火がちらちらと燃えている。
「そこな空け者。申し開きの仕方も知らなんだか」
「はあ……まあ、お怒りはごもっとも……?」
「何ゆえ疑問形なのじゃ。妾に口答えするつもりかや? ふん、それもよい。厳罰を恐れぬというならば、いくらでも無体を申せばよろし」
「……いや、その、えーっと、無体はどっちかっていうとそっちじゃ」
「そっちじゃと? 非礼もいい加減にせい。妾は公主ぞ。殿下ないし公主様と呼べ」
「公主様」
「直言を許す。申してみよ」
「……俺たち、結婚したんですよね」
「左様じゃ。不本意ながらの」
「それについては同感だけど、結婚したからには夫婦になったわけで、今夜は初夜なわけで」
 宝蘭はここでようやくはっとなった。さささっと後ずさって牀榻の柱に張り付く。
「そ、そういえばそうであったの。妾としたことが、うっかりしておった」
 寝衣の裾を踏みつけて転びそうになったのを彼に受け止められ、驚きのあまり思わず右手を振り上げてしまった。初夜の閨で花婿に手を上げるなど公主にあるまじき失態。宝蘭は我が身を恥じ、きつく唇をかんだ。
 隣国から嫁いできた彼は名を宵雪(しょうせつ)といった。十八の若さながら武人として活躍していたと聞く。なるほど、閨の明かりに浮かび上がった長身は立派なものだ。先程宝蘭を抱きとめた腕もたくましかった。眉宇は聡明さを感じさせ、鼻梁は高く、肩に流した黒髪は艶を帯びている。噂通り美男子といって差し支えないだろう。しかし、その瞳は。
 ――なんて赤い。まるで血のような。
 彼の生国、夜冗国(やじょうこく)の王家の血筋は男子にのみ代々紫色の瞳を受け継がせるという。だが、何の因果か歴史の気まぐれか、ときおり深紅の瞳を持つ公子が生まれる。彼らは国王の治世を乱す不吉なものとして忌み嫌われるらしいが、果たして本当だろうか。
 ――こんなにも美しいのに。
「あの……そ、そなた」
「先に休ませていただいてもよろしいですか?」
「え……で、でも、今夜はしょ、初夜なのだし、な、なすべきことが……」
「あいにく、竦み上がった幼女を臥榻に押し倒す度胸も趣味もありませんよ」
「よ、幼女じゃと? ふざけるでない! 妾は十六ぞ! 幼女なものか!」
「はいはい。それじゃ寝ますよ。お休みなさい、十六歳の公主様」
 妻に対する礼もとらず、彼はさっさと臥榻にもぐり込んでしまった。絹の上掛けを被ってすーすー寝息をたて始めるので、牀榻はたちまちひっそりと静まり返る。
「……何という無礼者じゃ……」
 宝蘭は呆然としてその場に立ち尽くした。

一年の大半を雪と氷に覆われるこの炎杳国(えんようこく)の主は、決まって女である。歴代の女王は金の髪を持って生まれ、その髪は切り取られると黄金の炎に転じる。この炎を紫焔(しえん)といい、女王の即位に際し、国中の至る所に置かれた大小様々の火炉がこれを宿す。一度宿った紫焔は女王の死もしくは退位まで消えることなく、厳しい風土で暮らす民の命を繋ぐ温かい灯となる。
炎杳国においては金髪の女王こそが唯一無二の支配者。女王の寵愛は千金に勝り、運よく笑顔を引き出そうものなら得意満面と胸を反らしてしかるべきなのだが――。
「母上、いつまでお笑いになっているのか。妾は笑い話をしたつもりはございませんぞ」
 宝蘭が口を尖らせて抗議しても女王は高らかな笑い声を引き込めなかった。豊かな結い髪にさした金歩揺をしゃらしゃらと揺らして、目尻には涙すらにじませている。
「まあまあ、やれやれ。そなたはいつも妾を笑わせてくれるのう。実に良き娘じゃ」
「笑い事ではございません。あの者は夫婦の契りも結ばずにとっとと眠り込んでしまったのです。これをけしからぬと申さずに何といいましょう」
「そこはそれ、そなたが悪かろうよ。何しろいきなり平手を食らわせたのじゃから。公子も難儀なことよの。異国に嫁いできて花嫁を迎えた夜に、当の花嫁から平手をお見舞いされるのでは。なんとまあ哀れな」
 反論しようとしたが、結局何も出てこなかった。確かにあれしきのことで頬を殴ってしまったのはいささか短慮であったと反省している。
「公子は我が国の生まれではない。いろいろと不慣れなこともあろ。ましてやそなたは公子の妻となった身。気遣ってやらぬでどうする。夫婦は仲睦まじうせねばならぬのだぞ」
「以後、手をあげないように心がけます」
 鳥肉の蒸し物をぱくぱくと頬張りながら返事をする。女王と公主は共に昼餉をとるのが慣例だ。昨夜のことを根掘り葉掘り尋ねられるまま答えていると、予想以上に大笑いされた。宝蘭はいくらか機嫌を傾け、気まずさも手伝って食事に専念する。
 ――男の腕に抱かれるなど、初めてのことゆえ。
 異国の公子を娶ったということで緊張の極みにいたのに、まさかあそこで転んでしまうとは。否、転ばなかったとしても遅かれ早かれ無礼者めと手をあげていただろう。宝蘭は十六になったばかり、炎杳国にはもちろん男の官吏も多数いるが、臥榻を分け合う仲になった者は一人としていない。男に触れられるのに身構えるなという方が無理だ。
「早う謝っておくのじゃな。婚礼早々夫婦喧嘩とは穏やかでない。じき虎寿山(こじゅざん)に参るであろ。そのときまでには仲ような」
 婚礼を終えた女王家の夫婦は、東の易斉州(えきせいしゅう)にそびえる虎寿山に詣でることになっている。およそ一月に及ぶ旅路を思うと憂鬱になる。あの若者とうまくやっていける自信などどこを探しても見当たらない。
「まあ珍しい。どうしたの、そんなに肩を落として」
「蓉蝶(ようちょう)姉上」
 母の堂室を辞して後宮の回廊をとぼとぼ歩いていると、見知った佳人に出会った。蓉蝶帝姫(ていき)、椿の咲く襦裙をまとった御年十七の淑やかな美姫は宝蘭から見て従姉に当たる。長姉を病で亡くして後は実の姉のように慕っていた。
「あなたの宮に行くところだったのよ。桜桃が届いたから一緒にどうかしらと思って」
「桜桃ですか。ふふ、姉上は妾の好物をよくご存じじゃ」
 禁園の水亭に移動し、蓉蝶の侍女が携えてきた籠一杯の桜桃を見るなり、宝蘭はぱっと表情を明るくした。今年の春は例年に比べ寒い。艶々とした大振りの桜桃にはなかなかお目にかかれない。瑞々しい実を咀嚼して微笑んでいると、蓉蝶が意味深に視線を寄越した。
「公子を殴ったんですって?」
「……もうお耳に入っているのですかや」
「後宮の女官たちが噂していたわよ。公主様は夜冗国の公子を気に入らないようだって」
「気に入らぬとか気に入るとか、そのようなことではございません」
「私があなたなら絶対いやだわ。赤い瞳の公子だなんて。気味が悪いもの。婚礼の席で見たとき、血糊みたいでぞっとしたわ。夜冗国って変な人間がいるのね」
「妾はぞっとはしませんでしたぞ。何というか、ひやりとならいたしましたが」
「あら、どう違うの?」
 続く言葉がないので桜桃を口に含んでごまかす。血のようだとは思ったが、ぞっとはしなかった。ひやりとしたというのも少し違う。では、何なのだろうか。
 蓉蝶と別れてから、宝蘭は大きく溜息をついた。
「……たった一つしか違わぬのに、なぜ姉上はああも女人らしゅうていらっしゃるのか」
 宝蘭は年齢より稚く見られることが多い。年の割に小柄なこと、顔立ちが幼いこと、曲線のはっきりしない体つきなど思い当たる節はたくさんあるが、十六にもなって幼女呼ばわりされるとは、不愉快を通り越して落胆さえ覚える。
 ――まるで兄妹じゃ。
 夫となった青年の面差しを思い出して、宝蘭は再び嘆息した。

「公子様! 聞いていらっしゃるのですか!」
「ごめんすまんすみません俺が悪うございました」
 蓬餅を頬張りながら、宵雪はぞんざいに言った。糯米の質がよいらしく、自国で味わった物より格段に美味だ。すでに七個目である。
「うまい、うますぎる。お前も食うか? 一個くらいなら分けてやらんこともないぞ」
「食べてばかりいらっしゃらず、もう少し御身の状況に気を配ってください。ここは炎杳国の後宮なんですよ。この国では女王がすべて、公主は我が国の太子に匹敵し、後宮においては夫よりも妻の方が一段も二段も上なんです。昨夜のようなふるまいは慎んでいただかないと、この理諷(りふう)の命はいくつあっても足りません」
 侍従として宵雪の婿入りに同行してきた理諷は額に冷や汗を浮かべつつまくしたてた。今年二十になるが、長身の宵雪と並ぶと頭一つ分は背が低いためか、兄のようにというより弟のように付き合っている。
「金輪際、公主様のご機嫌を損ねてはなりませんぞ。ここは我が国とは違い、女人の権勢が天下を席巻している敵城です。不興を買えばどんな仕打ちを受けるやら。炎杳国後宮史は一通りご覧になったでしょうね? 女王や公主の気まぐれに翻弄された男たちの憐憫を誘う様といったら他に類を見ません。うう、想像すると悪寒がします……」
「お前はちと心配性なんだよ。もっと気楽にいこうや」
「バカをおっしゃるでないバカ! 敵国で気楽にしていられるものですかバカ!」
「バカですまんな、臆病者。ま、さすがに今晩首刎ねられるってことはないだろ。一応、和平のためっていう大義名分があるんだし」
 一年前、夜冗国は炎杳国との国境を犯した。女王の怪しき力を欲し、彼女の国に攻め入った無法者は歴史上掃いて捨てるほどいたが、どれも必ず失敗した。女王の髪より生じるという黄金の炎が侵略軍の行く手を阻むからだ。各地に置かれた火炉は自国の民を守る傍ら、土足で踏み入った招かれざる客を容赦なく焼き払う。生きた獣のように動き回るあの奇妙な炎を相手にすればいかな名将であろうとも為す術がない。
 ――だからやめろと言ったのに。
 端から負け戦だったのだ。宵雪は父王や兄太子に出兵を思い留まるよう幾度となく進言したが、聞き入れられなかった。挙句このザマだ。遠征軍は壊滅寸前まで追い込まれ、夜冗国は周辺諸国に赤恥をさらし、炎杳国からは和睦の条件として次期女王たる公主の婿となる公子と、眩暈のするような額の持参金を要求されたのである。
 領土の上では夜冗国は大国、炎杳国は小国だ。交易上の付き合いはあったが、炎杳国側が公主を嫁がせることは過去に数例見られるにしても、その逆は前例がない。宵雪は先の戦で父王の命を受けて負け戦の先陣に立たされたのみならず、女王国の花婿という不名誉を着せられ、父王の尻拭いをさせられる形で生国を追い出されたのだった。
 ――食い物がまずかったらとっくにトンズラしてるな。
 公子が公主に嫁ぐなど聞いたことがない。和睦が結ばれ、宵雪が人柱となることが決まったとき、宮中にはあからさまな嘲笑とわずかな同情があふれた。あまりにうっとうしいので、出立の日まで城下の別邸に引き籠もっていたほどだ。
「用心に越したことはありません。いいですね、今宵はちゃんと責務を果たされるように」
「あの公主と契れって? 勘弁してくれよ、俺は童女趣味じゃないんだ」
「しっ! 口は禍いの門なり!」
「じゃあ小声で言うけどさ、あの公主ほんとに十六? せいぜい十二か十三だろ。こんな小さかったぞ。無理。あれに手ぇ出したら人としての何かが終わるね」
 もはや真っ青になって口をパクパクさせている理諷をよそに、蘭の香りの茶をすする。
 ――血のようだと思っただろう。
 公主は宵雪の瞳を正面から見るなり凍りついた。抱きとめただけで平手を炸裂させたのは恐怖の裏返しではなかったか。異形の男に触れられることを恐れ嫌ったせいではないか。
 だとしたら、宵雪が感じている以上の否定的な感情を抱いているに違いない。夫婦の契りを結ぶことは両者にとって望ましくないのだ。今更帰る場所はないのだとしても、義理以上の親しみを持って接する必要はどこにも見当たりはしない。
「……童女で悪かったの」
 禁園の垣根の陰からかすかな衣擦れの音が響いた。現れたのは満月を思わせる見事な金の色。望みもしない婚姻を強いられた小さな公主の姿だった。
「お見えになっていたとは存じ上げず、非礼をいたしました。どうぞご寛恕のほどを」
 宵雪は席を立って慇懃に拱手した。母国では夫が妻に頭を下げるなどありえないことだが、この国ではこれが普通だ。郷に入っては郷に従う。それが宵雪の信条だ。
「しつこいようじゃが、妾は十六じゃ。子も孕めるし、閨事の覚えもあるし、そ……そちらに関しては百戦錬磨じゃ。そなたの宮へ赴かずとも、褥を温める相手には困っておらぬ」
「結構なことでございます」
「うむ。ええと、その……桜桃を少しばかり持ってきた。そなた、桜桃は好きかえ?」
「幸運にも嫌いな食べ物はありませんので」
「そうか。ならばよい。甘くてうまいぞ。遠慮せず、とりゃれ」
 籠をぐいと押し付けられるので、宵雪は拱手の姿勢を解いて恭しく受け取った。
「人伝に聞いたことはありましたが、この国の女人はなんとも奇妙ですな。生娘でないことをさも自慢げに話すとは。いやいや、お国柄とは恐ろしいもので」
 公主を見送った後、平伏していた理諷がこわごわ顔を持ちあげた。桜桃の籠を抱えた宵雪は妙な引っ掛かりを覚えて首をひねる。
「……見たか?」
理諷がきょとんとするのでさらに首を傾けた。ついで、形のない罪悪感が胸に巣くう。
「泣いていたぞ、あの公主……」

「……あ、す、すまぬ」
 宝蘭は慌てて体を起こした。転寝をして、公子にもたれかかっていたようだ。眠い目が急に現実味を帯びる。虎寿山へ向かう道中の軒車の中は重苦しい沈黙に包まれていた。
 ――契りどころかまともに言葉も交わせなんだ。
 結局、宮城を出立し数日経った今も相変わらず話の接ぎ穂が見つかっていない。初夜で手をあげたことを謝ろうと思っていたが、口実にと携えて行った桜桃を渡すだけで終わり、以後は何かと理由をつけて顔を合わせるのを避けていた。
 ――妾が蓉蝶姉上のような麗人であれば、うまくいったろうか。
 童女のような宝蘭に夫婦の情を持つのはいやだと公子は言った。自国より伴った侍従の前での言葉だから真実なのだろう。思い出すと視界が水分を含む。外見が幼いから女として魅力がないと思われたのだろうが、どうにも癪だ。襦裙を纏っていればそう見えるかもしれない。しかし、意外や意外、純白の絹の内側は――。
「……やはり童女か」
「何かおっしゃいましたか」
「え、い、いや、こ、今宵の宿はまだかのうと思うての」
 低い声で問われるのでとっさに作り笑いを浮かべて応じる。中央に垂らされた帳の向こうには侍女が控えているが、隣に座っているためか、二人きりでいるような錯覚におちいる。
「先日は、無礼をいたしました。失言を申し上げまして」
 公子は伏し目がちにそう切り出した。深紅の瞳は隠されていて見えない。
「あいこじゃな。妾もすまぬことをした。その……頬を殴ってしまったゆえ。まだ痛むかや? 医者に診せたかえ」
「公主様の小さい手では医者に診せるほどの痛みは残りませんよ。……ああ子ども扱いしてるわけじゃなくて、単純に言葉のままの意味で」
「でも、思い切り殴ったぞ。手加減はしておらぬ。ずいぶん手応えもあったし。まあ、とにかく痛まぬならよいが。てっきりあれからずっと痛んでおるのかと思っていた」
「そんなふうに見えましたか」
「妾の前で顔を伏せるようじゃから、もしやと」
「これは別の理由からです。俺の……私の目の色は変わっているでしょう。不吉なので公主様を正面から拝見するのは控えているんです」
「不吉なのかえ?」
 宝蘭はぬっと身を乗り出した。下からのぞき込む格好で公子の瞳を視界にとらえる。
「まこと血のような色じゃ」
「ですから――」
「血の色は良い色じゃ。赤々と美しい。それとも何かえ、そなたの国では人の体を流れる血は青いのかえ? まるで紺青の空のような?」
「……いいえ」
「ならば何をもって凶となす。血の色は命の色。そなたの瞳は天下万民の命を映すから、そのように鮮やかな赤なのだろう」
 公子がなぜ目を見開いたのか、宝蘭は知らなかった。けれども、長らくもやもやしていた問題が解決して、気分がぱっと軽くなる。
「そうじゃ、ドキッとしたのじゃ。初めてそなたの瞳を見たとき、なんて美しさかやと見惚れてしまった。妾は紅玉を多く持っているけれど、そなたの赤にかなうものは一つとしてない。この腕輪の玉も、耳飾の瓊も、簪の珠も、並べて比べるのが虚しいほどじゃ」
 宝蘭が微笑みかけても、公子は見開いた双眸を緩めなかった。いくらか不安になって宝蘭は眉を曇らせる。
「……いかがした? 頬が痛むか?」
「なるほど……」
 くつくつと笑う。広い肩が揺れるのに少し面食らったが、彼の顔が若干幼さをにじませたので、こちらも肩の緊張を解く。公子は腹を抱えて笑い、ようよう落ち着くと、鮮血色の瞳で宝蘭を射抜いた。
「人は見かけによらないとは真実だったか。確かに百戦錬磨でいらっしゃる」
「何のことやら分からぬが、頬が痛いわけではないのだな?」
「痛いですよ。残念ながら頬ではありませんがね」
「どこじゃ! どこが痛む? 軒車を止め――」
 突然右手をつかまれ、驚いている暇もなく厚い胸板に押し当てられる。当然ながら衣の上からではあったが、宝蘭の呼吸を奪うには十分すぎる温もりが伝わってきた。
「ここが。焼けつくように」
「……な、も、もしや胸の病を患っておるのかえ? ばか者、なぜ早う申さぬか。医師を」
「それにしてもあなたの手は小さいな。こんな手で生活に支障はないんですかね。これじゃ包子を片手で持てないでしょう。桃や林檎も両手じゃないと持ち上げられないだろうな」
「ふん、包子くらい片手で持てるわ。桃も林檎も片手で事足りるぞ」
「どうせ小ぶりの包子でしょ。これっぽっちの。桃も林檎も一口大に切り分けてあれば大丈夫でしょうが、丸々一個はどうです? 無理だろうなぁ、落っこちるだろうなぁ、絶対」
「む。そんなことはない! 一個でも二個でも楽々じゃ!」
「じゃあ今度、俺の前でやって見せてくださいよ。そうだな、落ちたのは俺がもらうってことで。錦曲州(きんきょくしゅう)の桃は炎杳国一美味だそうですね。ぜひあれがいいです」
「落ちなかったら、妾が食べるのを横で眺めているのじゃぞ。先に断っておくが、妾は情けなんぞかけぬ。そなたがいかに物欲しそうにしていようともやらぬからな」
 ふいと顔をそむけ、大きな両手に包まれていた右手を引き抜いた。焼けるように熱い。
「……胸の病はよいのかえ? 長旅ゆえ医者を連れているが、診させようか?」
「医者はいりません。百戦錬磨の公主様が俺の妻女ですから」
「いるときは申せよ。我慢するとますます悪くなってしまうぞ」
 公子は笑いまじりに首肯し、ついには失笑した。宝蘭は意味が分からぬなりに、夫となった若者の笑声につられて頬をほころばせた。

虎寿山の道院に籠って五日。肉を使わない質素な料理を囲んだ遅めの昼餉を済ませ、公主の提案で遠乗りに出かけた。
「しっかりつかまっていないと落ちますよ」
「うるさいの、分かっておるわ」
 もともとは別々の馬に乗るはずだったのだが、公主がとても危なっかしいので同じ馬を使うことにした。前に座らせた公主は落ち着かないのかもぞもぞしている。
「無理して馬にしなくても。輿にすればよかったのに」
「ふん。妾とて馬くらい操れるわ。今日は調子が悪かっただけじゃ」
 見えなくとも白玉色の頬が膨らんでいることは明らかだった。初夜のときには高飛車な姫かと思ったが、どうやら単なる意地っ張りのようだ。男女のことに関して百戦錬磨だという見え透いた嘘も幼い外見を侮られまいと精一杯虚勢を張っているためだろう。
 ――血の色は命の色。
 祖国では蛇蝎のごとく嫌われる呪いの瞳を、羨望すらにじませてまっすぐに見つめてきたのが敵国の姫君だというのは、いったい何の皮肉か。
 実をいえば、宵雪の役割は公主に嫁ぐこと以外にもあった。女王に煮え湯を飲まされたと感じた父王と兄太子は、ひそかに敵城の内情を探り、内側から侵略する手はずを整えよとの密勅を宵雪にたくしている。しかし当の宵雪は、彼を不吉と蔑んで遠ざけ、そのくせ己が稚拙な策略の手駒として使い捨てた肉親に義理を尽くしてやるつもりなど更々なかった。残してきた父や兄に未練などないし、何より彼を迎えた公主が――。
「そなたは乗馬が得手じゃの。さすが武官であっただけのことはあるな」
「たくましい男がお好みで?」
「なっ、何もそんな意味ではない」
 わざと耳元に声を落とすと、公主は頬を赤らめて力いっぱい横向いた。その仕草が宵雪の気を惹くための計算だとしたらたいそう手練手管に長けた公主だといえるが、おそらくは、いや確実に素でやっているのだろう。
 虎寿山の麓から始まった道はやがて農道へとつながった。緑の畑には野良仕事に精を出す農民の姿がある。
「公主様だ!」
 畦道から数人の子どもが駆け寄ってきた。麻布の衣を着た農民の子らだ。
「灯果(とうか)に、崔由(さいゆう)に、杏鈴(きょうりん)じゃな。大きゅうなったの。妾を覚えておるとは嬉しいことじゃ」
「すぐ分かるよ。公主様の御髪はお月様みたいに光ってるもの」
「まあまあ公主様じゃないか。こんなところまでようおいでくださった」
 青い麦畑の間から小太りの女が顔を出した。傍にいた壮年の男もそれにならい破顔する。
「久しいのう。相変わらず夫婦仲ようしておるようで、よかったことじゃ」
「なあに喧嘩ばかりですよ」
「今年の麦はずいぶん豊かに実っておるの。そなたたちのおかげじゃな」
「いえいえ滅相もない。公主様に頭下げられたんじゃ具合が悪くていけねぇや」
「ねえ、公主様。その人は誰?」
「妾の新しい従者じゃ。良い男であろ?」
「お目目が赤いよ。怖い人みたい」
「怖いものかえ。この者はこう見えて兎なのじゃ。ゆえに赤い目をしておる」
「兎? 兎って小さいの? これくらいの? でも大きいお耳がないよ?」
「秘密の話じゃが、この者は兎の国の公子での。特別高貴な兎ゆえ、人の姿にもなるのじゃ。あまりにかわゆい兎だったから、ついさらってきてしもうたわ」
 素直な子どもたちはすごいすごいと瞳を輝かせた。それを見て女が笑う。
「なあんだ、従者様ですか。てっきり夜冗国から来たっていう公子かと思いましたよ。しかし公主様も難儀なことで。野蛮な国の公子なんかをもらわれて、苦労なさいますなあ」
 農民たちと別れ、静かな林道に入ると、公主は堅い声音ですまぬと詫びた。
「この村はそなたらの軍が入った郷から近い。従者と言うたのはそのためじゃ。許せよ」
 歓迎されるはずもない。宵雪は侵略者の側にいたのだから。憎まれて当然だ。
「異民族の襲撃を何度か受けた場所での、慰問のために訪れたことがある。あの者たちとはそのとき知り合うた」
「なるほど。親しくしていらっしゃるわけだ。宮中で遊び暮らす俺の姉妹とは大違いだな」
「そなたの国では公主は宮城から出ないものであろ。習慣の違いじゃ。比べてはならぬ」
 春風が吹き、公主の髪をもてあそんだ。花海棠の香りが舞い、落ちかけた夕日が木々を彩る。
「我が民を好いてくりゃれとは言わぬが、嫌うてはくれるな。ここはそなたの二番目の祖国となるのだから」
「……あなた次第だな」
 公主が首をかしげて振り返るので、やんわりと笑みを返す。
「あなたの民を好きになれるかどうかは、あなたを好きになれるかどうかにかかっているってことですよ。まあ、心配はしてませんがね」
「……どのようにすれば、好きになってくれるのじゃ?」
「好きになってほしいですか」
「そ、そりゃあ、そうじゃの……嫌われるよりはよかろうの」
「かわいくないな。正直に言ってくれればいいのに」
「何じゃ」
「あなたは俺に一目惚れしたんでしょ。だから俺にも好きになってほしい」
「な、何じゃと」
「だって、俺の目を見てドキッとしたって言ってたじゃないですか」
「む……ち、違うわ。あれはただのドキッじゃ。特別なものではない」
「えーでも普通異性を見てドキッとするっていったら間違いなく色恋関係でしょう?」
「そ、そうかえ? 妾は知らぬ」
「告白すると、俺も同じでしたよ。あなたと初めて会ったとき、鼓動が跳ねた」
 頭の高い位置でくくられ、さらさらと風に舞う金髪を一房そっとすくう。絹よりも淡く上品な手触りが宵雪の心に何がしかの変化を刻みつけた。
「月に住む仙女のような姫君だと気後れすら感じました」
「……幼女と申したくせに」
「触れるのがためらわれる年頃かと思いましたが、問題は年じゃなく――」
 続く言葉を打ち切ったのは、理由あってのことだ。わずかな音を拾うのが遅れた。己の不覚を憎悪したときには、横向いた彼女の頬を矢尻がかすめていた。
「公主様!」
 前後で馬を歩ませていた護衛の武官がいっせいに剣を抜く。間髪を容れず林の向こうからいくつもの矢が飛来してきた。風を切る音が引切り無しに響き、馬が狼狽して声をあげる。
「――公主様を道院へ!」
 武官の言にうなずくより早く宵雪は駆け出していた。手狭な林道で馬を走らせるのは造作もないことだが、公主に流矢が当たらぬよう気を配りながらでは難儀する。追手の足音を数える傍ら、手綱を取る腕で公主の体を覆い隠す。ぬかるんだ道を飛び越え、花海棠の天幕をくぐる途中で馬が脚を射られた。馬首が反り返り、二人して宙に投げ出される。
 幸い草むらに落下したが、宵雪は公主をかばった際、木の幹に背中を打ちつけた。その拍子に薄紅の花弁が雨のように散り落ちる。花海棠の雫を浴びた公主はこの世の人とは思わぬほど艶やかで、状況も忘れて見惚れてしまう。
「……ご無事か」
「妾は大丈夫じゃ。そなたは――」
 公主を突き飛ばし、即座に剣を抜き払った。直後、飛び散った剣花が夕映えにきらめく。連続して耳をつんざいた金属音は天上に躍り出る月を振るい落とすかのようだった。
敵は少なくとも五人いた。いずれもよく鍛えられた体躯の男で、上等な長刀を引っ提げている。これほど屈強な男どもが寄ってたかってあの小さな公主を弑せんとしているのかと思うと吐き気がした。悲鳴一つあげないのは恐怖にすくみ上がっているせいではなく、慣れているからだろう。彼女は何度もこういう目に遭っているのだ。王族の暗殺とは、国の数だけ存在するものだ。玉座から最も遠かった宵雪とて身に覚えがある。
「……申し訳ない。あなたの民を、害してしまいました」
 返り血を浴びた後、物陰にひそんでいた公主を見出して肩の力が抜けた。だが、頭から鮮血を被った姿で彼女に歩み寄る勇気はない。
「宵雪!」
 急に立ちくらみがしてその場に崩れ落ちる。朦朧とする頭をもたげると、美しい娘が不安げにこちらをのぞきこんでいた。黒目勝ちの瞳にはわけもなく安堵を覚える。
「先程は……すみませんでした、突き飛ばしてしまって。怪我は、ありませんか」
「妾のことはよい。そなたは傷を負っておる。痛むであろ、しゃべるでない。じき供が」
「初めてだな、……あなたに、名を呼ばれるのは。ご存じないのかと思っていたが……」
「ええい黙りゃ」
公主は宵雪の手から血塗られた剣を奪った。どこか危なげな所作で髪を切り落とし、地面に叩きつける。突如生じた黄金の炎が見る見るうちに宵雪をのみ込んだ。ふと先の戦の記憶を呼び覚まして背筋が冷えたが、奇妙なことに金色の火焔に包まれた体は灼熱に焼かれて灰になるどころか、温かい薬湯にでも浸かっているかのように心地よくなった。
「紫焔でそなたの傷を癒している。しばし待て」
 煌々と燃える炎の中に伸びてきた柔らかい手が、血の気を失くし地面にうずくまった宵雪の頭を優しく撫でる。宵雪はされるままになって、良質な転寝のごとき怠惰をむさぼった。
 永遠のような、一瞬のような時が過ぎゆき、彼ははたと目覚めた。背中に受けたはずの深い刀疵はすっかりふさがっている。血があふれる感覚はなく、めまいは治まった。視界もはっきりしてきて、辺りが暗くなりつつあることを理解する。
 死を免れたらしいことに気づくと、再度背筋が凍りついた。
「……宝蘭」
 金の炎を操る異国の姫君は、雪よりも白い頬を血溜まりに伏せ、動かなくなっていた。

「やれやれ。ようよう生き返ったわ。死ぬかと思うた」
 侍女がいれた淡い紅色の蓮花茶をすすり、宝蘭は一息ついた。杏の砂糖漬けと、茉莉花を混ぜ込んだ焼き菓子、黒胡麻餡の団子などをたらふく食べて落ち着いたところだ。
「ご自重なさいませ。紫焔は貴重なお力。軽々しくお使いになっては御身に毒ですわ」
「軽々しいつもりはなかったが、やや使いすぎたかの」
 紫焔を使うと――すなわち髪を切り落とすと体中の気がそれに消費されるためか、目的を果たしたとたん、体調を崩してしまう。数日から数月、歴史上の例を見れば一年もの間目覚めなかった女王や公主もいるほどだ。公子を助けるため、宝蘭は左耳より下の位置から髪をざっくり切り落とし、おかげで十日と三日寝込んでいた。
 侍女がむいてくれる李をパクパク食べていると、やにわに房室の外が騒がしくなった。
「――公主様はご無事か? お目覚めになったのか?」 
 宝蘭は慌てふためいて手巾で口元をぬぐった。入室の許可を取りに来た侍女には是と答える。どこか切羽詰まったふうな足音と共に、赤い瞳の公子が現れた。
「久しぶりじゃの。具合は良いのかえ」
「俺のことよりあなたのことです。起きていて大丈夫なんですか」
「腹が減ったので、茶菓を食しておったところじゃ。そなたもこちらへ来て召さぬかえ」
 公子を隣に座らせ、杏仁入りの練菓子を勧めたが、彼は宝蘭を見つめるばかりで皿に手をつけようとしない。
「……甘味は嫌いかや?」
「……本当に大丈夫なんですか?」
 見事に言葉が重なり、妙な沈黙が落ちた。
「大丈夫じゃと言うておるに。紫焔を使うと体に響く。気を失うこともしばしばある」
「だったら……もう少し穏便に気絶してください。死んでしまわれたかと肝が冷えましたよ」
「気絶の仕方なんぞ加減できるかや。もとはといえば、そなたが怪我をするからじゃ。武人を名乗るのならばあれくらいの敵兵、踊りながらでも始末せい」
「あなたのことが気がかりで集中できなかったんです。……何にせよ、無事でよかった。ずっと眠っていると聞いて、二度とお目覚めにならないのではと危ぶんでいました」
「女官が説明しなかったのかえ。紫焔のためであると」
「幾度も説明しましたわ。公主様は眠っておられるだけですと申し上げたのに公子様はお聞きとめくださらず、医者につかみかかるわ、薬草を採りに行くと言って丸一日帰らないわ、朝な夕な公主様の房室の前を徘徊するわ、ほんに大迷惑でございました」
 侍女がぎろりとにらむと、公子は罰が悪そうに湯呑みを傾けた。杏仁の練菓子を匙ですくって茶の中に落とすので、宝蘭と侍女は目をむく。
「ああ、こちらではこうやって食べないんでしたか。茶の風味と餡の甘さがよく合うのに」
「そうかや? ならば妾もまねてみよう。我が国でも蓮の実団子を茶に浸して食することがあるの。あれと似たようなものかの。……む。なんとまあ、美味じゃ。これは驚いた」
「でしょう。白茶でも十分に合いますが、花茶だとなおさらだな」
「夜冗国では、果物でも菓子でも、果ては肉や魚まで茶に浸して食すと聞くのう」
「果物は水気がないし、菓子は硬いし、肉や魚はぱさぱさしていることが多いので、前二つは茶に浸して、あとの二つは茶で煮て柔らかくするんです。茶の質だけは良いですからね」
「ふむ。夜冗国の黄茶は妾も大好きじゃ。白茶も紅茶も夜冗国の物がよい」
「俺はこちらの食べ物の方が好きですよ。果物は瑞々しいし、菓子は柔らかいし、肉も魚もびっくりするほどうまい」
「……すまぬ」
 宝蘭は匙を置いてうつむいた。
「そなたにはそなたの望みがあったろうに国の命で異国へ連れられ、妾の夫となった。さぞ不本意であろう。母上のご命令により結ばれた婚姻であるが、妾は申し訳なく感じる」
「あなただって希望があったでしょう? 夫となる男にはどんな男が望ましいか」
「妾の婚姻は母上のお決めになることゆえ、これといった希望はなかったが、夫となる者とは仲良うしたいと思うておった。母上と父上もたいそう睦まじくていらっしゃったから」
「俺の両親は不仲でしたが、だからこそ自分はああなりたくないと考えていました」
「つまり我らは似たような考えを持っておるということじゃな」
「そのようだ。――あなたには命を助けていただいた。礼を言います。もったいないな、こんなに切り落としてしまったんですね」
「おやめなさいませ。公主様の御髪に気安く触れるは不敬ですよ」
「そうなのか。知らなかった。綺麗なのでつい触りたくなってしまう」
 触れることなく引き込められてしまい、少々残念な心地になった。
「金の髪は王族の女子なら誰でも持っておる。珍しゅうもない。妾にはそなたの瞳こそ美しゅう見える。長らく見つめていても飽きぬ鮮やかさじゃ」
「ならばいつまでも見つめていてください。あなたに見つめられるのはいい気分だ」
 じっと視線を合わされると異様に鼓動が飛び跳ねて、熱に浮かされているかのように頭の芯がぼうっとした。突然ぬっと指が迫り、唇の端をかすめて去る。
「餡が付いていましたよ」
「……あ、ああ、そうかえ、大儀じゃ」
 どぎまぎしながら答えると、公子は悪戯っぽく笑い、李の皿を引き寄せた。
「炎杳国と夜冗国には様々な風習の違いがありますね。例えばこの李。夜冗国では夫婦円満を願って、妻が夫に手ずから食べさせてやる果物なんですよ」
「ほう。初耳じゃ。面白いの」
「試してみますか」
「えっ……わ、妾が、そなたに食べさせるのかや?」
「夫となる者とは仲良くしたいっておっしゃったじゃないですか」
 大いにためらったが、深紅の瞳にうながされるとなぜか否と言えない。右手で李を一欠片とり、力の限り腕を伸ばすも届かず、やむをえまいと恥ずかしいのをこらえて傍に寄った。対する公子は明らかに宝蘭の反応を面白がっている様子で唇を開き、李を口に含む。引こうとした右手首をつかまれ、指に残った果汁を舌先でからめ取られたときには、公子の双眸にも負けぬ紅が宝蘭の面をすっかり染め上げていた。
「あなたの指は砂糖でできているんですか? 雪のように白いのに、菓子のように甘い」
「ば、ばか者! 李のせいじゃ!」
「ではお返しをしましょう」
「……お返し?」
「妻に李を食べさせてもらったら、返礼として口づけをする。これ常識です」
「そ、そんなことは聞いておらぬぞ!」
「返礼しない夫は非人情とそしられます。よもや俺を人非人にはなさいませんよね?」
「知らぬ知らぬ知らぬ! そなた、妾をからかって楽しんでおるな!」
「心外だな。純粋にお礼をしたいだけですよ」
「ぬけぬけと嘘を申すな! 目が笑うておるわ!」
「――お戯れはそれまでになさいませ。公主様、知らせの者が参ったようです。お通ししてもよろしゅうございますか」
 眉を吊りあげた侍女が割って入る。宝蘭は居住まいを正して従者を招き入れた。
「先日の刺客の件ですが……」
 従者がちらりと公子に視線をやる。余所者は席を外せとの意味をくみ取って公子は席を立ったが、宝蘭はそれを止めた。
「夫に聞かれて困ることはない。そなたがいとわぬなら、妾の傍に」
 公子が再び座したのを見届けて従者の報告を聞く。発せられた名は予想していたものだったので、別段驚きはなかった。
「相分かった。宮城に戻りて後、妾より陛下に奏上しよう」
 従者をねぎらって下がらせ、侍女がいれなおしてくれた茶を飲む。
「妾はいつも思うのじゃ。金の髪など持って生まれるべきではなかったと。肉親に命を狙われ、その咎で彼らを罰せねばならないなら。されど、そなたと会うたもこの髪ゆえじゃ、一概に悪く言うわけにもいかぬの」
 溜息まじりにつぶやくと、卓子の上に置いていた左手にやんわりと温もりが重なった。
「憎み合う肉親もいれば、慈しみ合う他人もいます。人というのはその程度のもので、人の縁とはいい加減ではかないものだ。けれども、人を愛するのも人です、公主。あなたが俺の目を綺麗だと言い、俺があなたの髪を美しいと思う。こんな偶然が起こりうるから、我々は何とか生きていけるんですよ」
 大きな掌の温かさが宝蘭を頼りなくした。目尻ににじんだ涙をごまかそうと顔を伏せる。
「妻を泣かせるとは、そなたはたいそう不出来な夫じゃ」
「詫びの印に李を食べさせてあげましょうか?」
「お返しに口づけをせねばならぬのじゃろ」
「あなたはずいぶん幼いな。口づけだけで済むと思し召しか」
「……い、いらぬ! 妾は李など欲しゅうな――」
 公子はにんまりと笑った。してやったりといったふうに。
「ひ……きょう、じゃぞ、かような……」
「物を食べながら言葉を発せられてはだめですよ。食べ終わってから話してください」
 甘酸っぱい李の食感が口内に広がって、何も言えなくなった。

「彼方はいかがであったかえ?」
「麦がよう実っておりました。一面の緑が美しく」
 拱手を解いて公主が答えると、女王は過ぎし日に想いを馳せるように薄く目を細めた。
「妾が夫を伴うて訪れたときは見渡す限りの焼け野原であった。鮮やかな緑の麦畑を我が夫と共に眺めてみたかったものよ」
 炎杳国では奇異なことに、現女王には亡き夫の他に寵愛する男がいない。夫との間に二人の公主をなしただけというのも、あまたの男妾を持ち、あまたの子をなした過去の女王たちとは多分に異なるといえるだろう。
「公子は怪我をしたと聞いたが、もう良いのかえ」
「はい。公主様の恩情を賜りましたゆえ」
「左様か。ならば結構。長旅の疲れもあろう、ゆるりと休むがよい」
 謁見の間を退き、後宮へ向かう。公主が従姉の宮を訪ねるというので、宵雪も従った。
「宝蘭。無事だったのね、よかったわ」
「ご心配をおかけしました、姉上」
 蓉蝶帝姫はたおやかな微笑を振りまいて二人を出迎えた。すぐに茶菓が運ばれてくる。公主は湯呑みに手を伸ばしかけて、引き込めた。
「これにも毒が仕込まれているのですかや」
 とたん、帝姫の微笑が凍りつく。
「姉上にいただいた桜桃には毒が塗られていました。妾は解毒の薬を持ち歩いておりますゆえ、大事には至りませなんだが」
 いつか公主が手土産に持ってきた桜桃は蓉蝶帝姫とは別に取り寄せたものだと後で聞いた。彼女がたびたび毒を盛られているということも。
「毒だけではない、こたびは刺客までお送りになった。それほどに公主の地位をお望みか」
「刺客? 私がそんなこと……」
 帝姫が言葉を切ると同時に、奥の間から衛兵が一人の男を連れてきた。虎寿山の一件で、刺客を集め、指揮していた男だ。
「この者が申しております。あなたに命じられて妾を亡き者にせんとしたと」
「まさかあなたはそれを信じたの? こんな素性の知れない男の妄言を?」
「妄言かどうかは妾ではなく、霜雪省(そうせつしょう)の官吏が判じます」
 霜雪省という官府は官吏の不正や王族の関与した事件事故の事実を追及するのが務めだ。監察が特に重んじられる炎杳国では時に丞相にも匹敵する権限を有する。そして霜雪省の追及を受けるということは、もはや罪から逃れられないということだ。
「ねえ、宝蘭! 何かの間違いだわ!」
 衛兵が一礼して帝姫の腕を取る。帝姫は涙すら浮かべて従妹を見つめた。
「その男よ! あなたの隣にいるその男が仕組んだことよ! だって、あの野蛮な夜冗国の人間なんだもの、あなたを殺すくらいのこと造作もないわ。王家を内側から乱そうとして」
「我が夫を侮辱することは、たとえ姉上であっても慎んでいただきたい。刺客の件については担当の官に詳細をお話しくださいませ――」
 ほんの一瞬の出来事だった。衛兵のわずかな隙を突き、帝姫は隠し持っていた短刀を抜いた。止める間もなく、肩に流していた一房の金髪を切り落とす。わっと生じた黄金の炎が絨毯に、卓子に、榻に、見る見るうちに燃え移る。
「姉上、何をなさいます!」
公主の制止も虚しく、帝姫は結い髪にさしていた簪を投げ捨て、さらに髪を切った。炎は大きくうねり、踊るように天井を舐める。
「お前はいい御身分ね、宝蘭。公主様と呼ばれ、次期女王として大事にされて。私のような帝姫は玉座に触れることもなく、飼い殺しにされるだけだというのに」
「飼い殺しなどと――」
「玉座に座れない王家の血にいったい何の意味があるの? 今上陛下に公主はお前一人。お前さえ死ねば私にも機会が巡ってきたはずなのに。なぜ戻ってきたの? お前の顔なんか二度と見たくなかったわ。死に顔以外はね」
 熱風はどんどん勢いを増す。堂室の中が火の海となる前に、宵雪は公主を外へ連れ出した。
「姉上! 蓉蝶姉上!」
 公主はしきりに帝姫の名を呼ぶが、窓から噴き出した炎には何の迷いもない。紫焔が何を焼き、何を癒すかは、実のところその髪の持ち主の心一つで、使えば使うほど、当人の命も危うくなるのだという。ならば帝姫は――。
「なぜ止める! 妾の姉上が」
「あの方はあなたを殺そうとしたんですよ」
「けれども姉上じゃ! 妾の大切な……」
 炎はいよいよ宮全体を包み込む。二人は衛兵に付き添われて回廊まで出るしかなかった。
「……我らはな、亡骸が残らぬのよ。死に際しては、内よりあふれる紫焔に焼かれ、何もかも灰になる。骨の一欠片も、……残りはせぬ」
 燃えゆく従姉の宮を半ば呆然と瞳に映しつつ、公主は弱々しく呟いた。両肩がかすかに震えている。その肩をそっと抱き寄せると、公主は怯えたふうに宵雪を見上げた。
 くしゃりと顔がゆがみ、自分よりもずいぶん低い位置にある頭が飛び込んでくる。宵雪はただひたすら彼女を抱きとめた。
 曇天を貫く猛火がまるで悲しみ嘆いて咆哮する獣のように後宮の一角を食らい尽くした。

「ええい、もう一度じゃ!」
「またですか。もう四個食べましたよ」
 宝蘭が卓子を叩くと、公子は意地悪そうに笑って湯呑みを傾けた。
「桃が食べたいなら俺がむいてあげますから、そう言えばいいんですよ。まったく素直じゃないなぁ」
 公子の挑発に乗って宝蘭は桃を片手に乗せてどれほど耐えられるかという他愛無い遊びに興じている。今のところ例外なく途中で落とした。忌々しくも公子は宝蘭の手の下に掌を広げて待ちかまえているから、どの桃も卓子にぶつかって傷がつくことがない。
「もう一度といえばもう一度じゃ!」
「はいはい。仰せに従いましょう、公主様」
 公子は笑みまじりに言い、籠から桃を一個取って宝蘭に差し出した。錦曲州産の桃は殊に甘くて美味だ。もちろん大好物なのだが、落とした桃は公子が譲り受ける約束なので、宝蘭は一つも口にしていない。
「ふん、見ておれ。妾とて桃くらいいとも簡単に……あっ」
「はい、五個目」
 易々と受け止められる。宝蘭は両肩をわなわなと震わせた。
「そなた! わざと妾がつかめぬような桃を選んで渡しておろう!」
「じゃあご自分で選んでください。どれでもお好きなものを」
 たっぷり一刻近く迷って選び出したが、結果は変わらなかった。
「……む。何じゃ何じゃ! 妾の手は役立たずじゃ!」
 両手で思い切り卓子を叩く。掌の表面がビリビリと痛むので拳をぎゅっと握ってごまかした。すると公子がその片方を取る。
「とんでもない、役立たずなんかじゃないですよ」
「……桃も満足につかめぬのにかや」
「桃がつかめなくても、俺の心はしっかりとつかんでいるでしょう?」
 間近で囁かれ、宝蘭は鼓動が飛び跳ねるのを感じた。そこへ公子の侍従の声が割って入る。
「公子様。また陛下から密書が……あ、こ、公主様もご一緒でしたか、失礼しました」
「構わない。書簡を渡せ」
「ですが……」
 宵雪は渋る侍従を急かして書簡を手にした。宝蘭の隣でするすると開く。
「よいのかえ? その、妾がいても。何やら密書とか聞こえたが」
「妻に隠し事はしませんよ」
 書状には形式通りに息子の息災を尋ねる文章が並んでいたが、
「まあ見ててください」
 公子は湯呑みの茶を卓子にばらまき、その上に書簡を浸した。たちまち墨の文字が消え、紫色の文字が浮かび上がってくる。湯呑みに入っていた茶は夜冗国産の茶葉を使ったものだ。それに反応して隠し文字が現れる仕掛けかと、公子の横からのぞき見る。
一日も早く公主を籠絡しろ。そしてあの奇怪な炎の弱点を聞き出せ。ついでに我が国の随員をもっと宮中に入れさせるよう求めよ云々と、およそ穏やかでないことが書かれてある。
「懲りないなぁ、毎度毎度同じことばっかり。たまには違うことも書いてくればいいのに」
「……分かってはいたが、あちらの主は和平を長続きさせるつもりがないようだな。しかし、こんなものを妾に見せてよいのかえ。そなたの父からの密書であろう?」
「言ったでしょう、妻相手に隠し立てすることはない。朝廷に差し出してもいいですよ。前のは処分したので、残っていませんが」
「だめじゃ。そんなことをしたら、そなたがあちらと通じておるように申す官がおるかも知れぬ。妾から内々に、陛下にお伝えしておこう」
「案外本当のことかもしれませんよ? そもそもこの書簡が偽物で、とっくに紫焔のことを報告してるかも」
 紫焔は万能の力ではなく、使う者に重い負担を強いる。現に先の戦の後にも女王は長らく寝込んでいた。その程度はどう覆い隠しても高官なら知っていることだし、公子が密告しなくても誰かがそうするだろう。否、何より宝蘭は。
「妾は、そなたを信じる」
 まっすぐに見つめると、命を映す瞳がかすかにたじろいだ。あっと思ったときには、公子の両腕の中に閉じ込められている。
「俺はあなたより早く死にたい。そうすれば、あなたの灰をかき集めずに済む」
 低く響いた声音が宝蘭の胸を熱くした。公子の腕に抱かれて泣きじゃくったことを思い出す。
「ばか者。妾とてそなたの亡骸など見とうないぞ」
「それは、俺のことが好きだということですか」
「……嫌いなら平手を食らわせておるわ」
 彼は笑い、さらに強く彼女を抱き寄せた。
「宝蘭。あなたはかわいい人だ」
「名を呼ばれたのは……初めてじゃ」
「いいえ。初めてじゃないですよ」
「いつ呼んだ?」
「秘密です。ところで俺の名は呼んでくれないんですか」
「……宵雪」
「はい」
「し……しつこいようじゃが、わ、妾は十六ぞ。童女ではない。子も孕めるし、そ……の」
「分かってますよ。百戦錬磨なんでしょう」
「うむ。ええと……ち、違う。ひゃ……く戦錬磨などではない。すまぬ。妾は嘘を申した。そなたが妾を幼女と言って侮るので、つい……」
「へえ?」
 真っ赤になった顔をのぞきこまれ、なおかつ頬に掌をあてがわれる。
「……正直に言う。妾は、……く、口づけの仕方も知らぬ。ゆえに、十中八九、下手であろうが、許せよ。何せ、初心者なのだから……」
 少しの間がある。続いて、公子は肩を揺らして笑い始めた。
「なっ、なぜ笑う! 妾は真面目に告白しておるのだぞ! 真面目に聞かぬか!」
 拳で胸を叩いてやったが、いっこうに応えた様子がない。それどころかなおのこと笑う。
「だめだ、笑いが止まらない」
「笑い話をしたのではない!」
「ええ……そうでしょうとも。あなたは真剣だ。とても……」
 ひとしきり肩を揺らし、公子は微笑む。
「やはりかわいい人だ、宝蘭。俺はあなたの怒った顔が好きですよ。まるで桜桃みたいに赤くなって、食欲をそそられます」
「……妾は食べ物ではないぞ」
 唇を尖らせ、力いっぱいにらむ。にらまれた方は進んで軍門に降るようにまなじりを下げた。
「下手でも全然気にしません。と約束すればいいんですね?」
「う……ん、そうじゃな」
 言葉が途絶える。沈黙が落ち、優しく髪に指を通されていると、知らぬうちに視界を放棄していた。頬に手を添えられ、腰を引き寄せられて、唇が重な――。
「ちょっと! いったいいつまでうちの公主様を監禁なさっていますの? 公主様にはね、大事なご政務があるんです。お分かり? 忙しいってことですの! 急がないと午後の詮議が始まってしまうわ。さっさと公主様を解放なさい」
「監禁だなんて人聞きの悪いことを言わないでくださいよ、侍女殿。だいたいですね、そっちの公主様が桃遊びとかいう今時子どもでもしないような遊びをしたいとおっしゃってうちの公子様がお付き合いなさっているんですよ。迷惑しているのはこちらです!」
「冗談じゃない、迷惑を被っているのは私たちですわ。言わせてもらいますけれどね、そちらの公子様、食事の量が多すぎますわよ。官府から苦情がきておりますの。それも蓬餅やら揚げ饅頭やら蒸餅やら団子やら焼き餅やら水菓子やら練菓子やら甘味ばかり。そんなものばかり食べているといつか人鳥(ぺんぎん)みたいな体形になってしまいますわよ」
「ああそうですか、お気づかいどうも! ですが、私から見れば公主様こそ人鳥体形ですよ。失礼は重々承知ながら、とてもとても十六にもなる姫君とは思えませんね。公子様が幼女と仰せになるのも無理はないでしょう」
「何ですって! 公主様は人鳥体形なんかじゃありませんわ! 確かに人鳥に似ておいでですけれど、微妙に違います。あんなにきらきらした綺麗な人鳥はどこにもいませんわ!」
 禁園の亭の外で、侍女と侍従が声高に言い争っている。宝蘭はしゅんとうなだれた。
「……妾は、人鳥に似ておるのか」
 母のようにくっきりとした体の線がないのは意識していたが、人鳥体形などと言われるとは思ってもみなかった。
「俺は人鳥好きですよ。ひょこひょこしてて、かわいいじゃないですか」
「どうせそなたも妾を童女と思うておるのであろ!」
「違います違います、ちゃんと女人に見えていますよ? 柔らかいし、甘い匂いがするし、あちこちふにふにしてて――あ」
「……な……何を……ぶ、無礼者っ!」
 平手が鮮やかに鳴る。
 初夏の後宮、女王家の真新しい夫婦は、犬も食わない類のいさかいを始めることになった。